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音楽史⑤

こんにちは。

今回は日本のクラシック音楽についてです。

西洋音楽は16世紀に
フランシスコ・ザビエルなど宣教師によって
キリスト教と共に初めて日本にもたらされた
と言われています。

その後、日本は鎖国時代に入ったため、
西洋音楽が広まることはありませんでした。

西洋音楽が日本に根付いたのは
文明開花が進み、西洋に追いつこうと
日本が急激に近代化した明治時代以降です。


この時代に活躍した有名な日本人作曲家を
年代を追って見ていきましょう!




《瀧廉太郎》(1879〜1903)

作曲家として有名な瀧廉太郎ですが、
当時はピアニストとしても
才能を認められていました。

瀧廉太郎作曲の
ピアノの独奏曲『メヌエット』(1900)は
日本人が初めて作曲したピアノ曲です。

1901年にヨーロッパに留学し、
ピアノや音楽理論を学びました。

明治時代の初頭は
西洋の歌に日本語の歌詞を翻訳して
当てはめて歌う曲が多かったため、
日本語のオリジナルの歌を望む声が
高まっていました。

瀧廉太郎はその声に応え、
『荒城の月』『箱根八里』『花』『お正月』
などの多くの作品を作曲しています。


《山田耕筰》(1886〜1965)

山田耕筰は
日本に西洋音楽を普及させた一方で、
日本語独特の抑揚を活かした童謡を作曲した
作曲家です。


お姉さんのご主人で音楽家で英語教師の
エドワード・ガントレットから
西洋音楽の手解きを受けた後、
東京音楽学校(現在の東京藝術大学)で学び、
1910年にドイツに留学します。

1912年には
日本人初の交響曲『かちどきと平和』を
作曲しました。


帰国後はオーケストラの指揮者としても
活動しています。

1917年にはアメリカに渡り、
カーネギーホールで自分の作品を中心とした
演奏会を開きました。


北原白秋の作詞で
『からたちの花』『待ちぼうけ』『この道』
など、多くの歌曲を作曲しています。

また三木露風作詞の『赤とんぼ』も
今でも歌い継がれる名曲ですね。



《伊福部昭》(1914〜2006)

日本独特の民族性を追求した作曲家です。

北海道出身で
アイヌとの出会いによって
生活や文化に大きな影響を受けています。

作曲とヴァイオリンをほぼ独学で学び、
『日本狂詩曲』『交響譚詩』などの
力強い管弦楽曲を作曲しました。


伊福部昭の一番有名な曲と言えば、
やはり『ゴジラのテーマ』でしょう。

その他にも『ビルマの竪琴』『座頭市』など
多くの映画音楽を手掛けています。


また教育者の一面もあり、門下生には
芥川也寸志、黛敏郎などがいます。



《團伊玖磨》(1924〜2001)

クラシック音楽の他に童謡や映画音楽など
幅広いジャンルの曲を手掛けた作曲家です。

子供の頃からピアノを始め、
東京音楽学校で作曲を学びましたが、
第二次世界大戦中は陸軍楽隊に所属し
終戦後に学校に戻りました。

学外では山田耕筰に師事していました。

1952年に作曲されたオペラ『夕鶴』は
日本オペラ史上最高傑作の一つです。

交響曲や器楽曲をたくさん作曲する一方で、
混声合唱組曲『筑後川』や
『おつかいありさん』『ぞうさん』などの
童謡も作曲しています。



《芥川也寸志》(1925〜1989)

力強い作風で管弦楽・器楽曲・合唱曲、
そしてCMソングまで手掛けた作曲家です。

小説家の芥川龍之介の三男として生まれ、
幼い頃から
ストラヴィンスキーに傾倒しました。

東京音楽学校で学び、團伊玖磨と同様に
第二次世界大戦中は陸軍楽隊に配属され、
終戦後に学校に戻りました。

1950年に作曲した
『交響管絃楽のための音楽』が
日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)で
初演され、脚光を浴びます。

1954年には単身でソ連に密入国し、
憧れの作曲家ショスタコーヴィチ
ハチャトゥリアンと親交を深め、
ソ連で自分の作品を出版まで漕ぎつけた
という、かなりパワフルな人物です。
(まだこの頃、
日本とソ連の間で国交はありませんでした)


『弦楽のための三楽章』『交響曲第一番』
などの管弦楽曲の他に、
映画『八甲田山』
テレビドラマ『赤穂浪士』
森永製菓や日産自動車、JALのCM曲など
幅広いジャンルの曲を作曲しています。



『クラシック音楽で日本人の作曲家なんて
 知らないなぁ』
と思うかもしれませんが、
今回紹介した5人だけではなく、
日本にもたくさんの作曲家がいます。

一度は聴いたことがある曲も
きっとたくさんあると思います。

そして、聴いたことがなくても
日本人の民族性が活かされた曲は
日本人には聴きやすい曲が多いのです。


是非日本人の作曲家にも目を向けてみて
くださいね!

それでは、また🌸